500年の歴史ある熊本のい草

500年の歴史を持つ熊本の畳

 八代藺草(いぐさ)の起源は古く、およそ500年前の室町時代までさかのぼります。

永正2年(1505年)、人吉・球磨地域を勢力にしていた相良氏は八代攻めで名和家の支城であった上土城(八代郡千丁町大無田)を攻め落しました。後にその家臣だった「岩崎主馬忠久」が永正元(1504)年から戦死するまで、上土城の城代を39年間務めることになりました。忠久は、文武両道に優れた武将で、大牟田領内の古閑、淵前に藺草を栽培するよう奨励し、この事が熊本藺草の最初のきっかけだったといわれています。(千丁村「大法寺由緒」より)

 その後、江戸時代の宝暦年間(1750年代)の頃は、細川霊感公が栽培と製織を奨励された記録もあります。しかし、畳を使うことは明治維新前までは位の高い身分の人しか許されませんでした。それに藺草を作ることができた地域は、大牟田・新牟田・上土・新開・下村の五つの村にのみに限られ、「お止草」としてしか栽培は許されていませんでした。文政3年(1856)の栽培面積は32.9町歩(32.9ha)と記録があります。

 明治に入るとお止草が廃止され耕作の自由が許されました。自由にはなったものの、1日1枚程度の製織と1戸1反歩位の作付けでしたので、明治32年(1899)でわずか44町歩ほどの伸びでした。明治34年になると、千丁村に「八代郡畳表組合」が創設され、製品の自治検査も始めるようになりました。明治43年頃になると、藺草の機織機「野口式足踏機」が登場し、1日3枚程度の製織と1戸3反歩位の作付けが可能となり、畳表の生産量も次第に伸びていきました。このため、藺草の作付け面積も200haから300haへ少しづつ増えていきました。

 昭和7年(1932)に入ると動力織機が登場し、動力電線を引き込んだ近代的な製織がされるようになりました。作付面積も昭和11年(1936)で535 町歩となりました。戦中・戦後の幾多の困難をのりこえながら、大牟田表・八代表・肥後表は八代の地場産業として大きく変化し定着していきました。

 栽培面積は年を経る毎に進展しましたが、広島・岡山表−備後表と比較すると品質面で相当の格差がありました。その為、広島・岡山地域にい業技術者を長期派遣、先進技術、消費地の市場調査等を修得し、将来の「くまもと表」銘柄確立への大きな一歩を踏み出しました。

 備後表が作られていた地域が昭和40年以降、工業地域に変化する中、藺草生産量が軒並み減っていきました。これに反し、熊本の藺草栽培は八代地方を中心に宇城・球磨・玉名地方で質のいい藺草を生産し、めざましい発展をとげました。今日では日本全国の9割を占める「くまもと表」の生産地域に発展しました。

 2005年には岩崎主馬忠久が藺草を植えて、数えて創業500周年という大きな節目を迎えました。熊本県八代地域は全国を代表する「くまもといぐさ」の一大生産地域となりました。

資料提供:熊本県い業研究センター い業研究所加工研究室 様

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